風流美を愛でる 風流美の美しさを語ります

蛇笏の俳諧堂復元へ

飯田蛇笏は、俳壇を牽引する雑誌であった「ホトトギス」の重鎮であり、息子の龍太とともに、山梨県が誇りとする俳人です。「芋の露 連山影を 正しうす」「をりとりて はらりとおもき すすきかな」「くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり」など、蛇笏が山梨の自然や風物を詠んだ格調高い句は、多くの人に愛されています。

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山廬全景

蛇笏の生家が、笛吹市境川町小黒坂(旧・東八代郡五成村)に現存しています。蛇笏自身が「山の粗末な家」という意味で「山廬(さんろ)」と名付けていますが、江戸時代に名主をつとめたという、式台玄関のある立派な民家です。ここで生まれた蛇笏は、学業のために一時上京し、家督を継ぐために帰郷した後は、同じく俳人として活躍した四男の龍太とともに、生涯をここで送りました。現在は原則として非公開ですが、蛇笏・龍太の足跡をたどりたいという団体からの要望に応えて時折、ご家族が見学の案内をされることもあるようです。

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家相図 左上の太い線で四角く囲まれた部分が俳諧堂

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俳諧堂外観 昭和17年龍太撮影

山廬の敷地内にはかつて、穀物蔵がありました。蛇笏はその蔵を「俳諧堂」と称し、二階の二十畳ほどの板の間を書斎として使っていました。そこは近隣の農家、教員、僧侶などを集めて俳人たちを集めての句会の会場、俳誌「雲母」発行場所ともなり、また飯田家を訪れる文人も多く宿泊もしたそうです。まさに、蛇笏親子を中心とする俳諧運動が生まれ、展開していく場だったのです。

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移築先の蔵

ところが、農地改革で穀物蔵としての役目を終えたこの蔵は、1940年代後半に町内の別の場所に移築されることとなります。養蚕や農機具置き場に使われながら、次第に荒れていく様を憂慮したのが、蛇笏のお孫さんにあたる飯田秀實さんです。秀實さんは、蛇笏・龍太が二代にわたって使い、多くの俳人や文人にゆかりのあったこの場が失われることを危惧し、2013年、この蔵の所有権を飯田家に戻し、解体と保存管理を弊社に依頼しました。

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解体工事着工の朝 棟切式にて

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解体工事中の骨組み

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解体材の格納保存

蛇笏・龍太親子が、山梨の自然の中から俳句を生み出した場であり、俳人たちから「俳句の聖地」と称される「山廬」の地を、なるべく往時の形で維持管理し、後世に伝えてていきたい。「雲母」創刊100年の前年にあたる2014年、飯田秀實さんが理事長となり、その想いに応える600人を超える賛同者が集まり、蛇笏の誕生日である4月26日「一般社団法人 山廬文化振興会」が設立されました。

会では、活動目標のひとつの柱として「俳諧堂の復元」を掲げていますから、俳諧堂の解体材をお預かりする弊社としても、元の俳諧堂の姿を再現するための検証に取り組みました。山廬に蔵があった頃の家相図、龍太が撮影した1940年代初めの蔵の外観写真、1918年に撮影された蔵の二階に佇む蛇笏の写真。飯田家に残る史料を手がかりに、窓や格子・障子・庇の形などを推し量り、どうにか復元図案を作りあげ、2015年8月に、山廬での講演会にて、発表させていただきました。

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講演をする石川

復元のための資金、文化行政面での協力をどこまで得られるか、敷地のどこに再生するのかなど、解決すべき問題は山積しています。時間は多少かかるかもしれませんが、飯田秀實さんはじめ、会の皆さんと知恵と力とを出し合い、より多くの方の理解を得ながら、飯田蛇笏・龍太の足跡を、実際に訪れ、肌で感じることのできる場を、いつの日か再建することができればと願っています。古い建物の再生に携わってきたことが、地元の文化を次世代につなげる一助となれば、幸いです。